雑学

映画『関ヶ原』主演 岡田准一、主役は三成!

みなさんこんにちは、こんばんは。
SLYです。
今日、久々に映画館に行ってきました。
見たのは岡田准一さん主演の『追憶』。
追憶についてはまた今度の機会にするとして。(永遠に来ないかもしれないけど。)
映画館って予告流れるでしょ?
そこで流れたのが『関ヶ原』。

 

これまた岡田准一さん主演。
で、歴史好きな私としてはひじょーーーーーに観たい。
関ヶ原だし、岡田准一だし。
しかも主人公は家康公ではなく三成!!!!
敗者の関ヶ原なわけですよ。
これは絶対に面白いに違いない!ってわけで、最近シリーズで書いてる松本城すっ飛ばして今回は武将 石田三成にしてみました。

では早速。

 

石田三成さんをご紹介。

この人。

石田三成

 

こんな肖像しか描いてもらえなかったんだろうか…

生まれたのは1560年(永禄3年)。
近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で石田正継の次男として誕生。幼名は佐吉。
すごい。石田村って……

自分の苗字が地名になっちゃうくらいの名士の家系にお生まれになったようです。佐吉。

太閤秀吉に仕え、皆さんご存知の関が原の戦いでわずか6時間で負けたあと、
1600年(慶長5年)10月1日、徳川家康の命令にて斬首。

享年は41歳。
家紋はこちら。

 

大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)
これが石田三成の定紋かどうかは謎。
ただ、足軽たちの貸し出した甲冑などにはこの紋が入っていたらしい。
この家紋の意味については後ほどゆっくりご説明。

 

石田三成のお仕事

石田三成って関ヶ原で負けた人でしょ?え?他になんかしたの?ってゆーか誰の味方?
なーーんて思ってる人、けっこういるんじゃないかなぁ。
実際、歴史が好きじゃなければ社会の教科書には『関が原の戦いで東軍の徳川家康に敗れる』くらいのことしか書いてないし。
ってことで石田三成が一体どんな経緯でどんな仕事をしてたのか、ざざーーーっと紹介していきましょう!

生地、長浜の活性化

三成がまだ子供だった頃。
信長の命令で三成の生地、長浜を治めることになったのは豊臣秀吉。

秀吉は巧みな領国経営でわずか3年という短い期間で長浜を活性化。
幼いながらもその過程を見続けた三成は、日本中がこんな風に繁栄したらなんと素晴らしいことか!と、いたく感動。
強く秀吉に憧れるようになったそうです。

その後、有名な【三献の茶】のエピソード(あとでじっくり。)を経て秀吉に召抱えられることになった三成。
ここから三成はその優秀な“頭脳”をフル活用して秀吉をサポートしていきます。

戦は苦手。

1583年。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い。
秀吉VS柴田勝家。
有名なのは加藤清正などの“賤ヶ岳七本槍”ですね。
ここで三成は一番槍として参陣。23歳。その後24歳で小牧長久手の戦い、27歳で九州征伐、32歳で小田原城攻め。そこそこ戦には参戦している。しかも有名なやつ。
だけど三成はほとんど武功を挙げていない。
どうしたって戦が苦手。
それでも秀吉は三成を側近として傍に置き続けたのです。
それはなぜか?
その答えはこちら。
↓↓↓↓↓↓

 

 

とにかく計算が得意。

三成は本当にコレといった武功はあげていません。
にもかかわらず、秀吉は三成を側近の一人として側に置き続けます。
それはなぜか?
秀吉は三成の類まれなる『頭脳』に惚れ込んでいたのです。
秀吉は
「有能な実務者は豪胆な武将より得難い」
と感服しているほどです。
そんな三成が行ったもののなかで最も有名なのが『太閤検地』ではないでしょうか。
この太閤検地、社会科の教科書のなかでは秀吉がやったことになってますね、
まぁ確かにそうなんだけど、
色んな三成についての資料を読み漁っているとこの太閤検地、三成に一任されていた様子。

そこで三成は一体どんなことをしたのか?

収穫高を計る『升』を統一したのです。
今でこそ当たり前のことなのですが、当時は地域、もっというと領主ごとに計測する升がってんでバラバラだったのです。
三成はそれを盗一のものにすることで初めて全国の武将たちの石高が正確にわかったのです。
(ひどいところは太閤検地の後石高が倍以上になったところもあるとかないとか。)

皆さんが武将、石田三成について抱いているイメージ。
もしかしたらほんの少し違う三成を今後もご紹介していきたいと思います。
今回はこのへんで。